富士王朝説, 徐福,その他
よろずの神は、自然現象を神格化したものであり、それ以外の神(支配者)は実在する人物であり、天人[地球外人類(異星人)]や地球人。
古文書で、天地創造した神は、目に見えない神としているので、自然現象である。
大昔の物部家や天皇家の人が支配者[ 神 お願い申し上げる対象 ]の意味で命(みこと)とよばれ、
地上を支配する人や天からの来訪者を天人とよんでいた。
別世界の天人(月世人等)を、日本では外国人のように認識し、西洋では宗教上の神や妖精に抽象概念化していた。
( 日本書紀で斉明元年(655年)の飛行物体の天人を"唐人に似ている"と表現している。)
日本全般としては宗教はなかったが、中国から仏教等の情報を得た後、
天皇家の最高位を神から王に変更し、その王を天皇と命名し、
天皇家の行事を司る部門が、対抗上神道を形成したと思われる。
神道の神話は、東南アジアの神話や日本の昔話がごちゃ混ぜになっている。
漢字の鮫を知らなかったとするのは不自然であり、稲羽の素菟(因幡の白兎)の和邇は、鰐(ワニ)で、
日本での出来事ではないことになる。
天照大御神( あまてらすおおみかみ )が天の岩屋戸に隠れて闇の日が続いたという神話は、
縄文人がフィリピンのピナツボ山の噴火で日本まで逃げて来たときの昔話を基にしたものと思われる。
東南アジア(フィリピン,インドネシア付近)から富士山の麓に住み着いた縄文人は、
富士王朝[ 高天原( たかあまのはら )王朝 ]を築いたが、富士山の噴火で各地に移動した。
( 昭和天皇は、インドネシア人に似ているので、 天皇家はインドネシア付近から、物部家はフィリピン付近から来たかも知れない。
横浜に住んでいた頃、仕事の同僚の元横浜銀行の行員だった人は、故郷が宮崎県で、
先祖に天皇家にお嫁にいった人がいると聞いたが、その時は半信半疑だった。(パソコン業務がいやで銀行を退職)
現在の令和天皇に似ているので、事実であろうと思っている。
その人は、窮地に陥ったときに、天通力が作用するらしい。喧嘩の相手が三日もたたない内に交通〜。)
物部家の先祖[ 饒速日命=天照国照彦火明櫛玉饒速日命 にぎはやひのみこと ]は、高天原から河内国(大坂府)に天降りし、奈良地域に入り、
四畿内(摂津,山城,河内,奈良)統治者の長髄彦( 登美能那須泥毘古 とみのながすねひこ )と同盟を結び、
長髄彦の妹(冨屋姫命)と結婚し、稲作を広めた。
天皇家の先祖[ 邇邇芸命 ににぎのみこと = 天忍穂耳命 あまのおしほみみのみこと ]は、高天原から日向国の高千穂(宮崎県高千穂町)に天降りし、
九州勢力の熊襲と隼人族と戦い、日向地方を制圧した。
日向国で紀元前660年に即位した、第一代神武天皇( 神日本磐余彦 かむやまといわれびこ )が、奈良地域を領地とするため、東に進軍したが、
生駒山(大阪府と奈良県の境)で長髄彦の抵抗に遭い、兄の五瀬命は戦死したが、和歌山県熊野(久真野)から攻め奈良地域を占領した。
長髄彦は重症を負い青森県付近に落ち延び、兄弟の安日彦は新潟県付近に落ち延びた。
その結果、饒速日命は降伏し、天皇家の神官となった。
1982年に、中国で地名辞典の作成中、江蘇省連雲港市の徐阜村が徐福村であることが判明し、徐福の末裔が確認された。
秦の始皇帝(紀元前259〜210年)が、不老不死の霊薬を探す名目で、徐福に85隻の船団で、三神山(蓬莱,方丈,瀛州)に向けて出港させた。
財宝や五穀の種や農具等と、三千人(若い男女と専門家)を連れていた。日本への移住が目的と思われる。
徐福一行は、九州から大阪湾に入り、奈良地域(やまと)に着いたが居心地がよくなく、和歌山県熊野に移動した。
その後、富士山の麓に住み着いた。徐福は、富士の古代伝承を漢文に翻訳した。それが富士古文献(宮下文書)の基となった。
魏志倭人伝の邪馬台国の方位[真東]の基点である下相城が、
2006年に江蘇省宿遷市[北緯33°56′東経118°17′]で発見され、
中国名称の帯方郡(現在北朝鮮国沙里院市)からの距離[1万2千里(≒924Km?)]と方位[東南]、その他の事から、
邪馬台国は徳島県にあったとする説が youtube で紹介されている。 [2018年6月]
189年頃、卑弥呼が邪馬台国(阿波)の女王となる。
朝鮮海賊による日本沿岸の被害もあり、朝鮮半島と日本は対立していた。
200年、仲哀天皇は熊襲制圧のため筑紫(福岡県)に到着した。
神功皇后が「韓を支配せよ」との神(天人)のお告げを受けた。
仲哀天皇は、熊襲制圧に失敗し、神(天人)のお告げを無視したため、天罰を受けて病気になり急死した。
( 武内宿禰は、仲哀天皇の屍を本葬の前に海路で"もがり"を行った。)
妊娠していた神功皇后は男装し、軍船に乗られた。軍船は漕ぐことなく波に押されて辰韓に到着した。
辰韓王はその現象に恐れ、降伏し、朝貢を約束した。 辰韓征伐後の、12月に皇子(応神天皇)が生まれた。
神功皇后の三韓[馬韓(百済),弁韓(任那),辰韓(新羅)]征伐に物部膽咋連( 胆咋連 いくいのむらじ )が同行した。
201年、仲哀天皇のかご坂皇子と忍熊(おしくま)皇子が反乱を起こし、神功皇后と皇子(応神天皇)を討とうとしたが、
かご坂皇子は猪に食い殺され、忍熊皇子は武内宿禰の策略に嵌(はま)り宇治で戦死した。
( 武内宿禰は渡来系であり、天皇家の指示に従って行動しており、各地で諜報活動を行い、夷狩りの進言をしていた。
平群(へぐり)氏,巨勢(こせ)氏,一部の葛城(かずらき)氏,蘇我氏は、武内宿禰の後裔。)
神功皇后が、神託で「韓を討てば、熊襲も従う」と言っているので、仲哀天皇は韓系であろう。
238年、中国の魏が帯方郡を支配した。
239年、邪馬台国の女王卑弥呼が、帯方郡を経由して魏の都に使節を派遣し、
魏の明帝から親魏倭王の称号を与えられた。
四畿内(摂津,山城,河内,奈良)を中心とした日本列島が倭(わ)と命名され、その王が卑弥呼と認められた。
先祖が日向国(宮崎県)からきた奈良地域統治者の神功皇后( 193年に皇后、269年に崩御。)も女性なので、
倭という漢字が選ばれたと思われる。
369年、任那に倭(わ)府(軍政府)を置いて、朝鮮半島を牽制したが、高句麗や新羅の攻勢により、562年に任那は滅亡した。
日本に制圧された百済は、貢物として仏教を献上した。
欽明天皇( 〜571年 540年即位 )の時代、仏教推進派の蘇我稲目は大和国に寺を建て仏像を崇めたが、天然痘が流行した。
排仏派の物部尾興や中臣鎌子は、天皇に仏教禁止を進言し、天皇は廃仏を許した。排仏派は大和国の寺を破壊した。
敏達(びだつ)天皇( 〜585年 572年即位 )は、仏教崇拝と排仏の両方を許したが、疫病で亡くなられた。
用明天皇( 〜587年(病死) 585年即位 )のとき、厩戸皇子(聖徳太子)と穴穂部皇子の陰謀により、排仏派の皇族が粛清された。
物部守屋(〜587年)と蘇我馬子(〜626年)は戦争となり、物部守屋は戦死した。
戦いに敗れた物部一族は、荒吐族(長髄彦の子孫)の居る東北に落ち延びた。
( "〜部"の苗字は、日本古来の主要な役職を受け継いだ家系で、
"辺"は渡来系が付けたかも知れないし、仏教勢力の迫害を恐れて、"部"を"辺"に変えたかも知れない。)
崇峻天皇( 〜592年 588年即位 )は、蘇我馬子に殺された。
蘇我馬子の死後、645年に中臣鎌足と中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を殺した。蘇我蝦夷は、応戦準備中に兵士に逃げられ、自殺した。
朝鮮勢力から日本を守った中臣鎌足は、669年に天智天皇から、功績を称えられ藤原姓を賜った。
中臣家の親戚がやたらに藤原姓を名乗ったので、698年に文武天皇が、藤原朝臣(八色姓の第二位)の継承は不比等に限定した。
660年、仏教で日本の中枢を攻略した百済は、唐・新羅の連合軍に破れた。
663年、白村江の戦いで、日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に敗れ、百済は滅亡した。
百済王と家来の一族は、日本[難波(大阪市)]に避難し、枚方(ひらかた 大阪府)で活動し、日本に帰化した。
大内家や山口家は百済王系。 家紋は花菱(大内菱)。 ( 日本の仏教は百済系、明治以降の政治経済は李氏朝鮮系。)
元明天皇(661〜721年)の時代に、国号を二文字と規定し、大倭や大和と表した。
日本=[倭国→大倭国→日本国]
712年、古事記(元明天皇の勅により太安万侶が撰録)が作成された。
720年、日本書紀(舎人親王等により撰録)が作成された。
759年、万葉集(大伴家持等?が編集)が作成された。
勾玉(曲玉)の由来仮説。
縄文時代の遺跡から、カシューナッツ(中南米原産)に似た形の穴の空いた石(数cm, 主に翡翠,瑪瑙,碧玉)が発見されている。
貿易や、船で辿り着いた人に、言葉で示すのが難しいので、勾玉を見せてカシューナッツと物々交換したのかも知れない。
エクアドルで発見された土器は、九州の縄文土器に似ている。1960年代に、研究者が縄文土器説を発表している。
経路は、黒潮 ⇒ 北太平洋海流 ⇒ カリフォルニア海流、 ペルー海流 ⇒ 赤道海流 ⇒ 黒潮。
エクアドルに流れ着いた縄文人がエクアドルで暮らし、漂着した人や子孫が、大量のカシューナッツを積んで日本に戻って来たかも知れない。
[ 参考 秋田「物部文書」伝承(無明舎),奇書「先代旧事本記」の謎をさぐる(批評社),徐福と日本神話の神々(彩流社),その他 ]
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