富士王朝説, 徐福,その他



よろずの神は、自然現象を神格化したものであり、それ以外の神は実在する人物であり、天人[地球外人類(異星人)]や地球人。
古文書で、天地創造した神は、目に見えない神としているので、自然現象である。


東南アジア(フィリピン,インドネシア付近)から富士山の麓に住み着いた縄文人は、
富士王朝(高天原
(たかあまのはら)王朝)を築いたが、富士山の噴火で各地に移動した。

( 昭和天皇は、インドネシア人に似ているので、 天皇家はインドネシアから、物部家はフィリピンから来たかも知れない。
 横浜に住んでいた頃、仕事の同僚の元横浜銀行の行員だった人は、故郷が宮崎県で、
 先祖に天皇家にお嫁にいった人がいると聞いたが、その時は半信半疑だった。(パソコン業務がいやで銀行を退職)
 現在の令和天皇に似ているので、事実であろうと思っている。
 その人は、窮地に陥ったときに、天通力が作用するらしい。喧嘩の相手が三日もたたない内に交通〜。)



1982年に、中国で地名辞典の作成中、江蘇省連雲港市の徐阜村が徐福村であることが判明し、徐福の末裔が確認された。

秦の始皇帝(紀元前259〜210年)が、不老不死の霊薬を探す名目で、徐福に85隻の船団で、三神山(蓬莱,方丈,瀛州)に向けて出港させた。
財宝や五穀の種や農具等と、三千人(若い男女と専門家)を連れていた。日本への移住が目的と思われる。

徐福一行は、九州から大阪湾に入り、奈良地域(やまと)に着いたが居心地がよくなく、和歌山県熊野(久真野)に移動した。
その後、富士山の麓に住み着いた。徐福は、富士の古代伝承を漢文に翻訳した。それが富士古文献(宮下文書)の基となった。



物部家の先祖(饒速日命=天照国照彦火明櫛玉饒速日命)は、高天原から河内国(大坂府)に天降りし、奈良地域に入り、
四畿内(摂津,山城,河内,奈良)統治者の長髄彦(登美能那須泥毘古)と同盟を結び、長髄彦の妹(冨屋姫命)と結婚し、稲作を広めた。

天皇家の先祖(邇邇芸命=天忍穂耳命)は、高天原から日向国の高千穂(宮崎県高千穂町)に天降りし、
九州勢力の熊襲と隼人族と戦い、日向地方を制圧した。
日向国で紀元前660年に即位した、第一代神武天皇(神日本磐余彦)が、奈良地域を領地とするため、東に進軍したが、
生駒山(大阪府と奈良県の境)で長髄彦の抵抗に遭い、兄の五瀬命は戦死したが、和歌山県熊野から攻め奈良地域を占領した。
長髄彦は重症を負い青森県付近に落ち延び、兄弟の安日彦は新潟県付近に落ち延びた。
その結果、饒速日命は降伏し、天皇家の神官となった。


朝鮮海賊による日本沿岸の被害もあり、朝鮮半島と日本は対立していた。

200年、仲哀天皇は熊襲制圧のため筑紫(福岡県)に到着した。
神功皇后が「韓を支配せよ」との神(天人)のお告げを受けた。
仲哀天皇は、熊襲制圧に失敗し、神(天人)のお告げを無視したため、天罰を受けて病気になり急死した。
妊娠していた神功皇后は男装し、軍船に乗られた。軍船は漕ぐことなく波に押されて辰韓に到着した。
辰韓王はその現象に恐れ、降伏し、朝貢を約束した。 辰韓征伐後の、12月に皇子(応神天皇)が生まれた。

神功皇后の三韓[馬韓(百済),弁韓(任那),辰韓(新羅)]征伐に物部膽咋連が同行した。

201年、かご坂王と忍熊王が神功皇后と皇子を討とうとしたが、かご坂王は猪に食い殺され、
忍熊王は、竹内宿禰の策略に嵌(はま)り、宇治で戦死した。
神功皇后が、神託で「韓を討てば、熊襲も従う」と言っているので、かご坂王と忍熊王は、熊襲ではなく韓人であろう。

369年、任那に倭(わ)府(軍政府)を置いて、朝鮮半島を牽制したが、高句麗や新羅の攻勢により、562年に任那は滅亡した。

日本に制圧された百済は、貢物として仏教を献上した。

欽明天皇( 〜571年 540年即位 )の時代、仏教推進派の蘇我稲目は大和国に寺を建て仏像を崇めたが、天然痘が流行した。
排仏派の物部尾興や中臣鎌子は、天皇に仏教禁止を進言し、天皇は廃仏を許した。排仏派は大和国の寺を破壊した。

敏達(びだつ)天皇( 〜585年 572年即位 )は、仏教崇拝と排仏の両方を許したが、疫病で亡くなられた。

用明天皇( 〜587年(病死) 585年即位 )のとき、厩戸皇子(聖徳太子)と穴穂部皇子の陰謀により、排仏派の皇族が粛清された。
物部守屋(〜587年)と蘇我馬子(〜626年)は戦争となり、物部守屋は戦死した。
戦いに敗れた物部一族は、荒吐族(長髄彦の子孫)の居る東北に落ち延びた。

崇峻天皇( 〜592年 588年即位 )は、蘇我馬子に殺された。

蘇我馬子の死後、645年に中臣鎌足と中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を殺した。応戦準備中に兵士に逃げられ、蘇我蝦夷は自殺した。
朝鮮勢力から日本を守った中臣鎌足は、功績を称えられ藤原姓を賜った。

660年、仏教で日本の中枢を攻略した百済は、唐・新羅の連合軍に破れた。
663年、白村江の戦いで、日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に敗れ、百済は滅亡した。
百済王と家来の一族は、日本[難波(大阪市)]に避難し、枚方(ひらかた 大阪府)で活動し、日本に帰化した。
大内家や山口家は百済王系。 家紋は花菱(大内菱)。 ( 日本の仏教は百済系、日本の政治経済は李氏朝鮮系。)


712年、古事記(元明天皇の勅により太安万侶が撰録)が作成された。
720年、日本書紀(舎人親王等により撰録)が作成された。
759年、万葉集(大伴家持等?が編集)が作成された。



勾玉(曲玉)の由来仮説。
縄文時代の遺跡から、カシューナッツ(中南米原産)に似た形の穴の空いた石(数cm, 主に翡翠,瑪瑙,碧玉)が発見されている。
貿易や、船で辿り着いた人に、言葉で示すのが難しいので、勾玉を見せてカシューナッツと物々交換したのかも知れない。

エクアドルで発見された土器は、九州の縄文土器に似ている。1960年代に、研究者が縄文土器説を発表している。
経路は、黒潮 ⇒ 北太平洋海流 ⇒ カリフォルニア海流、 ペルー海流 ⇒ 赤道海流 ⇒ 黒潮。
エクアドルに流れ着いた縄文人がエクアドルで暮らし、漂着した人や子孫が、大量のカシューナッツを積んで日本に戻って来たかも知れない。





[ 参考 秋田「物部文書」伝承(無明舎),奇書「先代旧事本記」の謎をさぐる(批評社),徐福と日本神話の神々(彩流社),その他 ]


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