短冊

短冊


この短冊は、折口信夫先生が神道本局(麻布)に訪れたときに、
母が短冊と筆を差し出して、先生の作品を書いてもらったものです。
( 働いている少女の後ろ姿を詠んだ作品? )


[ 売ったりしないようにと言われたそうなので、折口信夫記念館のようなところで引き取って貰えなければ、
 自分の死後、ごみとして処分されるでしょう。東京の知人はそのまま持っているように言ってました。]


折口信夫(のぶお?)は、男色家と言われているが、何かの生物理論上の原因かもしれない。
母は折口信夫は女性のようで、女嫌いで連れ立っているのは、男の弟子ばかりだったと話していた。
授業で見た折口信夫を東京の知人も女のようだった、と評価はよくない。

与謝野晶子の影響で女嫌いになったのかもしれない。牝鶏(ひんけい)云々は、折口信夫が戦争を批判していたので、
軍部に睨まれるのを恐れた柳田国男がとおまわしに諭したのかも知れない。写真の柳田国男は男らしく見える。

鳳-テブナンの定理(電気回路)の鳳秀太郎は、与謝野晶子の実兄。

 [ "柳田国男" http://ja.wikipedia.org/ 『フリー百科事典 ウィキペディア』( 写真引用 )
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9B%BD%E7%94%B7 更新 2012年8月2日(木)11:58(世界時) ]




 
[ 東京の知人は谷時中(儒学者)の子孫の方で、谷時中(1598-1649)は土佐朱子学(南学)を確立した人です。
 富農家に生まれ、高知市の真乗(常)寺[真宗大谷派(本山は東本願寺)]で、修行時に儒学・医学に興味を持ち、還俗(げんぞく)し、儒教を広めた。
 農家に有りがちな不服従の性格と剛毅な性格のため、藩主山内忠義の招きに応じなかった。

 ( 山内家の努力むなしく、犯罪であるテロが日本で横行し、犯罪集団の革命軍側が勝利し、明治となった。
  高知県はりゅう馬で左翼のイメージですが、帝王学の面もある儒教が広められた土地柄です。左翼の宣伝に騙されないように。)

 同級生に皇族の方がいるそうです。
 1999年3月頃に仕事で知り合いました。
( 保健所から保健福祉センターに名称が変わった頃。2019年現在は保健所。 )
 お寺(安芸郡東洋町の甲陽山真乗寺[真宗大谷派])の娘さんで、教職から大田区役所(栄養士)、定年後に社団法人?。紳士録に記載?。
 いくらか海部元総理似、タレントの[山瀬まみ]にもいくらか似ている。
 社会派のように見えても、日頃の歯に衣着せぬ発言で、強硬な保守系と思われていたかも知れない。
 自転車に乗っているときに、自動車にぶつけられ、重症を負った原因かも知れない。大田区の大学付属病院で治療して、完治したそうです。
 左翼と見られないためか?、定年後に「天下りする」と言っていた。

 ( 車道を自転車で走るのは危険、
  共産党横須賀市会議員が、自動車を自転車にぶつけて逃げた事件があった。やくざ者?の子供は当て逃げしてもいい?。)

 ご主人(同郷)は新聞記者で、子供はいません。当時の新聞記者は左翼が非常に多かったが、学歴を重視した結果とのことです。
 新聞記者は有名大学出が多いので、立派である、というような事を言っていた。

 [ 区役所の仕事が終わって何年かたった後の電話で、「あんたなんかと付き合うような人物なのではない」のような事を言っていた。
  最初の頃は愛想がよく、家系の事を話したり、仕事の配慮をしてくれたり、親切さは最後まで変わらなかった。

  その区役所の仕事は、以前は地方公務員の仕事だった。谷さんの話によると、立場が同じぐらいなので、スムーズに対応してくれなかったらしい。
  そこで、区議会の承認を得て運送会社に依頼する事になったそうです。金額が少ないが箔がつくためか、採用した会社が請け負った。
  大田区内に似たような仕事の経験がある運送会社もあった。
  仕事は、医療品を載せての送迎。区民の病気(食中毒や伝染病等)に関わる事や検疫や保健関連業務。保健婦(元看護婦)さんと病気の区民を乗せた事もあった。
  2台の車で業務を行った、
  担当した蒲田駅近くの区役所内センター( 後に内装工事?のためか、土木部建物の地下(土木機材がいくらか残っていた)に移転 )と、
  西北方向の保健所が基点だった。
  期限のあるバイトだった。期限が近づいたとき谷さんは、増額するから延長するように言ったが、生活がつらいほど安い給料だったので、辞退した。

  谷さんが先生、先生と尊敬してたセンター長は、常識のあるちゃんとした人物(医者)。その後、センター長は他の勤務地に移動した。
  延長しなかったのは安い給料だけではない、実は自民党のOBが、女性は左翼が多いと決め付けて、左翼でない人にも嫌がらせをしていた。 ( 1999年4月から石原都知事 )
  最初は、車で大田区役所の地下駐車場でまで行けたが、後に玄関前となったが玄関前も禁止になり、センター長は、駅の反対側の離れた所に降りて、区役所に向かった。
  介護保険制度の施行に向けて、谷さんや保健士(婦)さん達が、大田区等で活動していたが、保険関連業務としてであり、決して左翼思想のためではない。
  ( [グレタ]のような社会主義のための行動とは、全く異なる。)

  ( 保健婦さんは、元看護婦さんが多いようだった。若い女性の原付バイクが国道の交差点で転倒したとき、素早く指示し、怪我をしてないか確認していた。)
   都庁の地下駐車場での制限はなかった。選挙事務所に立ち寄る男性の職員がいたが、何年か後に、規制緩和されたかも知れない。]

 ( 母も新聞記者との縁談があったが、親が調査した結果、女がいたので破談となった。( 日本攻略?) )

 漫画家(黒鉄ヒロシ)との縁談もあったそうです。

 武士批判?に対しては、防衛戦のときに誰かが防衛しなくてはならないと思う。
 朱熹は水軍系のように見え、科挙のための予備校の先生のような印象なので、
 孔子や老子に専念すればよかったのにと思う。]

[ 旧姓谷浩子さんが、去年(2017年)の10月に癌で亡くなりました。享年78(満77歳)。まだまだの年齢なのに、残念です。
 手術をしないように言ったのですが、肩書き重視なので、手術をうけたのかも知れません。
 ( 癌は、手術をすると血液を介して転移するので、手術後、殆どの人が1年以内に死亡すると聞いた事があります。
  本人の同意がなくても、家族の同意で手術されてしまう事があります。
  最近は、過去に否定された免疫療法の別の方法(光免疫療法)が注目されています。
  現在時点では、光免疫療法以外の病院治療(切除手術,抗癌剤,放射線等)は危険だと思います。
  父が癌になり、退院後、母が温熱療法を行いました。父の死因は癌ではありませんでした。 ( 父は62歳で死亡、母は老衰で死亡(92歳)。)
  癌は移植できるので、生ものは危険です。
  ( ユッケ→刺身→寿司、海賊→やくざ→庶民。 森の石松「江戸っ子だってね、寿司食いねぇ」)
  ( 諜報機関(CIA)が癌で暗殺した事もあった。足のうらと背中の実例が米国にある。) )

 ご主人は、2018年8月に自転車に乗っているときに、熱中症で亡くなりました。享年79歳。
 ( 谷さんが亡くなった後、訪れた甥(ご主人側)の方の話によると、ゴ*屋敷になっていたそうです。)
 旧姓谷さんから、ご主人がお墓の趣味をもつようになったと聞いたことがあります。
 りゅう馬についは、「私も夫もきらい」と言ってました。
 亡くなられた事は、きちんとした御付き合いでなかったため、ことし(2018年12月)知りました。
 甥の方によると、ある遺産の半分は、高知県のお寺向けだったらしいですが、係争中との事で、はっきりしません。
 甥の方が、マンション周辺での旧姓谷さんの評判は悪く、「あんな人をよく言う人がいるのか」と言っていた。
 ( 区役所でも、他の職員と言い争っていたことがあったが、パソコンを教えたりした職員や理解のある職員もいた。)
 残っていた借金は、生命保険で返済されたとの事です。( 棚から牡丹餅? )

 旧姓谷さんは知人ですが、心のかよった友人のような面もありました。強く主張する人ですが、根は優しい性格もある人です。 葉書[表](宛先は旧、差出は新), 葉書[裏]
 儒教の話しを伺いたかったのですが、仏教関連の事をいくらか伺いました。( 密教の知識がある事や故郷のお寺に菊の紋章があることなどを聞きました。)
 高知県のお寺に対し、災害時に邪魔だから云々という酷い内容のインターネットサイトがあった。
 合気道?教室を考えていたときがあったようです。
 谷家が朝鮮系と話し、スポーツ芸能人の何人かの名前を出していました。 ( 仏教は朝鮮系。)
 [ 母も浅田家が朝鮮系と言っていましたが、それに臆することなく、日本人として平家側を支持していました。( 中身は鈴木 )
  大昔から何度も結婚していれば、家系に朝鮮系が混ざっても、致し方ありません。 ( 人相で判断すべき。) ]

 最初は、貯金で中古物件を購入するとのことで、幾つかの物件(数階建)の資料を見せてくれました。定年間近い(年内)ときです。
 それがいつの間にか、お金を借りて、夫婦で経営の新築マンションを建てていました。そのため相当疲れたようでした。
 取巻きの人に勧められたのかも知れません。余裕の生活だったのに、借金苦の人生終盤となってしまい、こつこつ貯めた財産はどれだけ谷家にいくのだろうか。
 いつも用心していましたが、地位や肩書きには、弱かったようです。
 知り合いになったときには既に、弟さんは独身で亡くなられていました。妹さんがいると聞きました。]








母は神道本局で事務兼雑用の仕事をしていました。
( 一家が恵比寿屋の旧知の方(神崎さん)に御世話になりました。(住込)
 母は仕事をしながら夜間学校にかよった。実践女学校商業科を卒業後、大妻技芸学校夜間部裁縫科を中退。
 母の兄は船関係の大学を卒業、妹は師範学校を卒業(夫も教員)。)

近代短歌以前の短歌が趣味で、日本史や万葉集に関心があり、民俗学にも関心があったようです。

写真1 ( 神道学院奉告祭 前から2段目、右から2番目が母。いくらか林海峰九段似?。)  写真2
     ( 縄文人の一部と漢民族の一部は似ている。)
     ( 東大に入った中学理科部の阿部部長は、林九段に似ている。漢民族系か縄文系と思われます。)
     

写真3 ( 迷子札 )  写真 短歌1  写真 短歌2  写真 書道  写真 詩吟

写真4 ( 鉄工所と横浜冷凍機(株)の経営の頃の父。写りがよくない。実物はいくらか王監督似?。)
写真5 ( 子供の頃 )



姓氏録 辿ればかしこし 万姓は 皇室に到る 珍(うづ)の国柄
( 坂下門にて、外人記者への答え。)

伊東町 恵比寿屋と刻みし 迷子札 還暦迎うる わがてにのせぬ

黄楽の きびしき朝を 踏みしめて 昨日の疲れの 影をひきゆく

六月の 晴るれば長き 日の暮れを 蒼く流るゝ あじさいの道

[ 虹綸 高橋りん (旧氏名 鈴木りん) ]

( 虹は虹短歌会から、綸は名[りん]から かもしれない。)



祖母は母の名を[風鈴]として、祖父は[倫子]としてかもしれない。 (鈴木鈴)

恵比寿屋(家名は鈴木)には子供がいなかったので、養子が跡を継ぐ事になった。
(養母の実家は山口家)
祖母は医者の方面の家で子供を生んだ後、離婚していた。

母の母親[ 恵比寿屋へ養子 平家側の家系(鈴木、通称やまき) 平安時代まで武士 ]
母の父親[ 婿(静平) 清和源氏方面の家名(浅田) 平安時代は公卿の祐筆 ( 罪を犯し、伊豆に流されたのかも知れない。) ]

( 伊豆は、主に"奈良時代〜平安時代"、流刑地だった。)
( 平兼隆は父に勘当され、伊豆国山木郷に流されたが、山木判官(裁判官)となった。1180年8月に頼朝,時政に襲われ戦死した。)

( 古代氏族の朝田[姓]から、麻田[姓]、浅田[姓]が派生した。国名は[朝鮮]、建国王名は[李]なので、王家でない渡来人が朝田と名乗ったと思われる。
 古代苗字の阿部(あべ)をもじって、安部(あんべ), 阿倍(あばい),安倍(あんばい)の姓が派生した。
 陰陽家(占いや予言)の安倍晴明(あんばいのせいめい)の名前を使って、天気や状勢を「いいあんばいに」、「わるいあんばいに」と表現した。
 後に、安部, 阿倍,安倍は、「あべ」と読ませるようになったと思われる。

将門ではないが、母は威勢がよく、「百万人といえど我行かん」とよく言っていた。
「千里の道を行かずんば万巻の書を読め」という事も言っていた。

母は古語や崩し字の読み書きができたので、古書等を神道本局で読んでいたかも知れない。
紫式部の源氏物語は、男が書いたような文章だと言っていた。
( 藤原道長に近い藤原為時が源氏を褒めちぎり、その後紫式部が中宮を応援?。源倫子は日本人似?。)

母は父と遭遇する前に、父の父親が病気で恵比寿屋の長屋から運ばれるところを見たそうで、何かの因縁かもしれない。

母の祖母は、死亡と診断された後、棺おけの中から「おたか!」と祖母の名を呼んで生き返った経験がある。
( 祖母は、柳田国男や[東京の上野**や大阪の松岡*]の当時の社長にいくらか似ている。)

父(先妻が病死)も母(離婚)も再婚。母の父母(離婚)も再婚。伊東地方(母の方面)は、「やだったら戻っておいで」と言って嫁に出す習慣がある。

先妻の異父?兄弟が養子になっていた事が母の死後に判明、妻は祖母の親戚。
わたくしは母と同じB型で甘党、名は父が決めた。


長い時代続いた恵比寿屋は、母の父親の代で店を閉め、一家は東京に移転した。

母の兄は八幡野の人(元武士)と結婚したので、平家びいきの母と兄の家とは折合がよくなっかった。
平家側の祖母は隅で小さくなっていた。
( 稲葉家には火事の前までは、鎧兜があったそうだ。早稲田卒業の一番器量がいい子が似ていてる。)

母の兄もいた父の会社が倒産後、ますます折合がわるくなった。
( 母の妹は母に食品や古着をときどき送って来た。
 母の兄の家で、母は兄に文句ばかり言われていた。姉はいとこにいじめられたと言っていた。)

母の葬式のとき、「きょうだいと違って、いとこは近い親戚ではない」と、自分に対していとこ(母の兄の子)が言っていた。
( 横浜から引越しする前、いとこ(母の妹の子)は自分に対して信用できないと言っていた。もう一人には無視され、話しをしたことはない。)

引越後、いとこ(母の兄妹の子)と親戚付き合いはない。金の切れ目が縁の切れ目、他人ならまだしも、親戚では始末に負えない?。

( 源平の過去の経緯は軽んじられない。支配者が因果関係に基づいて操作しているのなら対策が必要となる。
 工藤系には、菅原道真の祟りのようなものがある。平家の怨念によるものかもしれない。(天人のコンピューター)
 高橋家の姉は奇怪な死となった。(ミイラのようだった) 不幸が続いた親戚のある高橋家は名字を変えた。
 仕事で遭遇した伊東家(祖父の家には鎧兜があるそうだ)でも奇怪な事故死があったそうだ。その辛党の若い人に祐親の墓参りを勧めた。)




父の母親(いわ 船大工の家 抱茗荷)は工藤方面?、父親の家系(明治初期まで武士(指南番))は不明。
父の姓は母方、父方に大反対された。祖母の方面との相性や縁起(四谷怪談,鍋島騒動)が理由?。名付親は僧侶。

祖母が祖父の父親の家に入るときは、前以て用意された服に着替えさせられたそうだ。

船大工の家は、江戸城修復のときに、伊豆から横浜の金物店?まで出向いて、そこから通ったそうだ。
尾ひれがついて、「金の茶釜でお茶を飲んでいた」と言うと、「その茶釜には蓋がなっかったんでしょ!」というような話しを母から聞いた。

父は若い頃は父方のおじに、後に父方のいとこに御世話になった。
早稲田大学理工科予科に入ったが、おじの化学への薦めに従えず、本科に進めなかった。電気に興味があったようだ。

( いとこは父と似ていて、警察署長の後、県警本部の○○部長だった。)
( こじつければ、鉄人28号の正太郎は自分のように思える。)

会社(〜1950年代)経営の前、酒は嫌いだが営業職だった。 趣味は囲碁,シューティング,テニス,スケート、A型でチョコ好き、180cm、視力2.0。
銃剣術で県代表だったので、満州に出兵したときに狙撃兵ではないが狙撃銃を与えられた。アルコールは満州で寒さ凌ぎに飲んだぐらい。

姉はAB型で、アルコールは苦手、甘辛中間、囲碁はきらい、父の母(川奈)似?。
( 結婚前の姉は、狐タイプは嫌いで、「やせ男はやだ」、「細く長い人生より太く短い人生の方がいい」と言っていた。
 写真の父の鼻は実際とはだいぶ異なる。
 不思議な事に姉の長男は写真の鼻だけが似ているが、性格は全く異なり、姉の夫側に似た。末娘だけが姉に似た面がある。)

明智光秀の末裔に、父方の従兄弟(A型ではないかも)は嫁に行った。結婚相手は、光秀に全く似ていないくA型方面のタイプ。父(A型)のその兄弟もA型かな?。
その相手の人の父親は、皇居の自動車の運転手だった。従兄弟の子供は少し遺伝上?の問題があったかも知れない。
A型とB型は相性がよくない。AB型は、迷いがあって優柔不断な性格になりやすいかも知れない。
明智光秀は、信長と違って、天皇家を軽視しなかった。

父は夢は大きく、ケンブリッジ、オックスフォードとか、
馬鹿げたこと[「悪い奴でも俺の所に来ればよくなる」]を言っていたそうだ。そんなことだから詐欺師(共産党?)にだまされた。
少しはましになっても、完全には困難でしょう。油断はできない。共産党の中小企業乗っ取りの事について母が話しをしていた。

父は横浜の交通安全協会でタクシー会社経営の市会議員と知り合いになった。父が死んだ後、議員の配慮で惨めな所から引越することになり、
一時の住居として、議員の土地にある小さい方の家を約1年間貸してもらった。感謝しています。大きい方の家には、別の家族が住んでいた。

GHQやタクシー会社で働いていたある人は、人柄がよく病院の院長と親しいらしく個室だったが、市会議員についても聞く事ができた。
( 相対論上の膨張宇宙モデルを提唱したルメートルに容姿がいくらか似ている。)
横浜の工業団地の〜鋼材に勤務の年長の人も、物事の正しさや人柄に関する認識がその人に似ているような気がする。




病院で知り合ったある人は、関東地方出生の源氏の家系(唐津の城主)だが清和天皇系に似ていて、平家側のわたくしにも似ている。病院内では親友。
その人の父親の電器会社は、松下電器にはかなわなかった。何かの因果?。松下幸之助は九州方面?、性格は異なるが頼朝を連想してしまう。
松浦という名字の中学の同級生は頼朝に似ていた。( 吉田という名字でも見掛けた。)
水戸黄門は、最初の頃は時代劇らしい番組だったが、薬売りや女性忍者の頃から現代風になった。
わたくしの若い頃は、鎧姿でない肖像画の楠木正行に似ている。源平は人種の正確な分類にはならない。

[ 旧姓小笠原敬子さんは、御姫様育ちで、ほとんど料理はしないそうですが、
 源氏系でよいとされている趣味(歌舞伎に似ている)があり、学校の成績は2位。立場上、相当努力が必要らしい。

 ( せっかく笠原系なのに武田系の影響で平家側から見れば良くない趣味となったようだ。笹川鎮江さんが吟ずる「さくら花の詞」を愚弄する舞踊をさっさ系が行っていた。
  水戸光圀は、舞踊会の最中に藤井紋太夫を刺し殺している。尊皇を隠したか?。尊皇攘夷派の天狗党は、一ツ橋慶喜を頼りにしていた。韓栄?、英栄?。)

 唐津藩の小笠原長行は、真理に沿う堅実な人で、最後まで幕府側として戦ったが、子の長生は子爵の称号を与えられた。その方の娘さんです。
 小笠原姓は甲斐国巨摩(こま)郡小笠原が起原で、武田系と笠原系。痩せ型は武田系が多いかも知れない。
 古代姓の笠原家は武蔵国造(くにのみやつこ 祭祀を司る世襲地方官)であり、南武蔵と北武蔵の本拠地が、横浜市と埼玉県鴻巣市。
 あまりにも広域なので、後から便宜上、南北に分けて統治したと思われる。
 母方の祖母の家紋は蔓柏ですが、笠原姓の家紋の一つにもあります。似ている原因かも知れない。笠原姓と偶然の縁がある。]

[ 旧姓小笠原さんとは病院以外では話したことはありません。
 こちらの住所(旧)と電話番号(旧固定と携帯)は知らせてあり、こちらも住所と電話番号は伺いました。
 電話はだめと言われてましたが、今月(2018年12月)掛けました、予想どうり連絡できませんでした。
 満92歳になられるので生死もわかりません。御夫婦は、ある宗教団体の幹部と聞きました。
 昔勤めていた会社の事務員さんに勧められて、政治団体と勘違いして、上記の団体と競争関係の宗教団体に、
 一旦入りましたが、もともと宗教はきらいなので、すぐ脱会しました。
 ( 宗教は厄介な問題が多いので、道徳団体に変わった方がよいと思う。道徳団体は無税、宗教団体は有税にすべきだと思う。)
 旧姓小笠原さんの身内にある地位の人がいる事もあり、旧姓谷浩子さんにそれとなく伝えていました。
 旧姓小笠原さんにも、旧姓谷さんの事は非詳細を伝えていました。
 旧姓谷さんは、問題対処に変わった方法を使用するときもありました。「落ちぶれ華族〜」と言っていたので、調査をしたのかも知れません。
 先祖が源平合戦のとき平家側だったと言うと、旧姓小笠原さんは「敵だ」と言ってました。
 旧姓小笠原さんと旧姓谷さんとわたくしは似た方面です。 旧姓小笠原さんも人種が重要なことを実感しての発言もありました。
 ご主人は山形県出身(庄屋?)で、お子さんの海外旅行が修行になるような事を話していました。
 若い頃、雑誌の丸を読んでいたと言うと顔色を変えました。好戦派のような誤解はされていないと思われます。
 旧姓小笠原さんは、宗教の勧誘は全くせず、「歴史でも書けば」と言ってました。]





恵比寿屋は平家側の店として地域の人に親しまれ繁盛し、村のまつりごとを行っていた。
伊東町、伊東市となり、祐親まつりが行われている。三大仇討ちの一つがあった観光地として。

( 母は荒木又右衛門の子孫の方と知り合いになりました。 病院にいるときお世話になりました。)


恵比寿屋の先祖は、伊東祐親(すけちか 元は工藤)の重鎮であった。
( 祐親のお墓が移動される前は、母の母親の先祖と恵比寿屋の先祖の墓石は祐親の近くにあった。)

当時の伊東は八幡野(やわたの)以外は、ほとんど平家側であった。

祐親と甥の工藤祐経(すけつね 後に伊東)は争ったが、源頼朝の策略であろう。
保元の乱,平治の乱後の1160年に頼朝は伊豆に流された。 ( 伊豆は当時の流刑地 )
平家に力があった時期の1176年、伊東祐泰(すけやす)が、
所領争い絡みで、源氏側となった祐経の郎党(大見小藤太と八幡三郎)に討たれた。

祐経は平家側の[祐親と祐泰]の両方を狙ったはず、
祐経の郎党が矢を放った場所は八幡野と赤沢の境付近。

祐泰が殺された後、祐親は娘と頼朝との不義の結果の生れて間のない子を死亡させている。
1180年の頼朝の挙兵に対し、祐親は応戦するが、捕らえられ三浦家で死亡。

1193年に祐泰の子の曾我兄弟が祐経に対する仇討ちを果す。

曾我兄弟が頼朝も討つ計画であったのは当然、原因が頼朝なのだから。
北条時政も頼朝を狙っていたであろうが、時政が黒幕なら頼朝は死んでいたはず。
その後、頼朝は落馬で死亡となっているが、時政かもしれない。


大昔からどこかの国が策略で外国を攻略してきたように、源氏は未開拓の東北地方を攻略する拠点づくりを、
源氏側朝廷勢力を使って計画し、実行したのかもしれない。頼朝以外の計画もあったかもしれない。
( 669年に中臣鎌足は、天智天皇より藤原姓を賜った。中臣の親戚がやたらに藤原姓を名乗ったので、
 698年に文武天皇が、藤原朝臣(八色姓の第二位)の継承は不比等に限定した。)

有力武士勢力が平家だけでは、朝廷政権を平家が脅かすと懸念し、朝廷政権が源氏を台頭させてしまった。
複数の有力武士勢力の存在が、武士勢力を台頭させることになった。
単数の有力武士勢力(平家)を朝廷の管理下に置くべきだった。
武士に対する地位財産の配慮や管理術が不足していた。帝王術が堅固でなく、藤原家による争いに影響されていた。

比企(島津)氏の懇願を受け入れ、平家が頼朝,義経を殺さず生かしたのに、頼朝は、平家や平家側を滅ぼし、安徳天皇を死に追いやり、
頼朝側となって戦った弟の義経,範頼を殺した、なんという理不尽。
後の戦国時代で、子供まで殺す悪い前例となった。「恩を仇で返す」前例にもなった。
( 埼玉県に比企郡がある。)




家系図では、北条氏,熊谷氏は平家となっているが、平直方以降は怪しい。
( 一ノ谷の戦いで熊谷直実が、平敦盛を討った。)

恵比寿屋の系図買いの話しがあったが、恵比寿屋は断ったと母から聞いた。
系図買いしなくても、かってによその系図に書き加えた事もあったらしい。

和田氏は平家系統と源氏系統。

千葉氏は平家の家系だが、源氏側となって平家側と戦った。源氏は軍事政権と平家打倒が目的なのに、将門の意志を履き違えた?。
平家打倒が主目的なら、自分で自分の首を絞めたことになる、三浦氏も。
( 義経寄りの東北の藤原氏は、義経を見限って、頼朝側になったが、頼朝に滅ぼされた。)
伊豆では大庭氏や和田氏の活躍もあり、頼朝を追い詰めたが、千葉に逃げられた。千葉氏が頼朝を救い、平家を裏切った。

( 千葉県は北条の力が及ばなかったためか、源氏タイプが神奈川県より格段に多い。千葉県は平家や平家側が公然と生き残った地域のようだ。
 長野県の市街地は源氏タイプが多いようだが、山奥には平家の落人部落がある。
 平家の会のある代の会長は、痩せてからの笹川静江さんに似ている。
 伊豆では"判官びいき"の判官は山木判官のことだが、千葉県では義経。義経びいきが多いらしい。
 義経が頼朝から逃げていたとき、とある家で刀の修繕をしてもらった。その事により、その家は張替という姓を与えられたそうだ。)

頼朝挙兵に係る工藤家で、平家側だったのは、祐親と祐泰と曾我兄弟だけと思われる。

工藤家は寺院建築を伝えた渡来系(モンゴル系朝鮮人)かもしれない。

祐親は源氏が新羅系と知っていたかもしれない。祐親は日本人の方に似てしまった?。
簡単に言えば、源平合戦は新羅対日本の戦いのようなもの。 [ 弥生 対 縄文 ]


平家は縄文系。 アイヌは縄文系。 隼人族は南洋系。
熊襲( O型が多く、日本系神道。)は、古い弥生系。 ( 朝鮮半島でA型が拡大してきたので、九州に移動したのかも知れない。)
( 新弥生と天皇家(半分)は、熊襲を目のかたきにしていた。)
奈良,大阪,長州,薩摩,水戸,仙台,甲斐は、弥生系勢力。 弥生系は朝鮮(韓国)系。

上層部を弥生系に攻略された倭朝廷が、主に東北地方で、夷(えびす)狩りを行ったため、
アイヌ人は北海道に逃げたが、本州に留まった縄文人が、弥生系の攻撃をかわしながら、日本文化を築いた。
弥生系は、仏教や祭りやスポーツ芸能などの弥生文化を築いた。

情報は案外、"競争相手は知っていて、味方は知らない" とうことがあると思う。秘密主義より公開主義の方が有利かも知れない。



静岡県の工藤系の高橋は所領争いの少し前に分岐し、宇佐美は直前に分岐している。

Uコン飛行機で遊んだ中学の同級生の宇佐美君は、
卒業後、東海道本線で偶然見た下級生
( 理科部 道灌方面かな? )に似ている。お姉さんとお母さんは似てなく、綺麗系の美人。

( 義理の姉妹の孫は、下級生とそのお姉さんの中間のようなきりょう。)

宇佐美君と下級生は、文字どうりきりょうがいい。宇佐美鉱油の社長(大田区で議員に立候補していた)も?。


苗字[宇佐美]由来仮説
@ 大分県宇佐市の日本系神社の巫女が美人だったので、[宇佐美]姓となった。

A 宇佐神宮(韓国系神道)の巫女(日本系神社から移籍)が美人だったので、天皇から[宇佐美]姓を賜った。 ( 八幡神社は仏教側の神道。)

B 複数のワニの背を利用して川(沼)を渡って、皮を擦り剥いた、稲羽の素兎[ 因幡(稲葉)の白兎(人) ]から[宇佐美]姓となった。

C 天人によく思われていた地球人が、月の兎の形を見て天人を懐かしんだので[宇佐美]姓となった。
  うさぎ、うさぎ、何見て跳ねる〜、羽衣天人、竹取物語。


高橋姓の系統の一つは古代氏族で、高橋虫麻呂は万葉歌人。
高橋姓は丸顔でO型が多く、モンゴル系高句麗人の系統かも知れない。

父はA型、母はB型、わたくしはB型で、母方の祖母(鈴木)に似た。父方の祖母(高橋)は宇佐美系かも知れない。
駆け落ちした父方の祖父の苗字は[小針]かも知れない。勘当され[高橋]姓となった。
当時は、勘当されると私生児となり、戸籍に父親名が記載されない。 ( 現在は記載される。)

鈴木姓は太平洋沿岸に多く、系統の一つは古代氏族の穂積氏(物部系)で、縄文系の比率が高いと思われる。

母の兄妹の家[鈴木(中身は浅田),石川]は、母に「いつまで 平家,平家 と言っているのよ、源氏が勝っただからね!。」というような事を言っていた。

( 新羅の海賊が帰化して[源]姓になった。平家に勝ったわりには、[源]姓は少ない。会社名も千葉県で見たぐらい。頼朝の子孫の[金沢]姓も少ない。
 北条が勝ったのではないのか。源氏には平家の怨みによる祟りがある。(天人のコンピューター) )

( ぱっとしない対象(韓国訛?でダサイ)を嫌がるタイプの能登という苗字を災害で思い出した。地震の発生時期を天人が調整しているかも知れない。
 地域が天罰対象にならないように、防犯カメラをたくさん設置し、強国に媚びへつらう事なく、外国に対し安易に制裁して敵国をつくる事なく、
 軍事力を強化して中立外交となるように工夫した方がよい。)


佐藤姓は藤原系。( 藤原姓は、中臣鎌足氏と直接関係ない者までが名乗っていた。 )

( 阿部系や佐藤系でトマトタイプでない丸顔の一部は、中国の儒教等の専門家の末裔かもしれない。)




横浜に住んでいたとき、仕事で伊東に何度かいったが、国道135号線は走りづらいので、
三島から県道12号に出る方が走りやすいと思う。


母の話によると、母の父親が伊豆の伊東町で暮らしていた頃、
砂浜にとまっていた鼎(かなえ)のような物体が飛び去るのを見たそうです。 
地球外生物[変調音現象]
伊豆には、「島が岸に近づいてきた」という言い伝えがある。



歴史
  

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